住民投票でダム建設を阻止した・・・歴史!!!
おはようshigeです。。
徳島市の住民の声で残した吉野川第十堰を
散歩されてもらいました。
吉野川第十堰歴史
1672年(寛文12年)蜂須賀綱通により徳島城の防御を固めるため、
吉野川と別宮川を接続する水道を開削する工事(新川掘抜工事)が行われた。
その後の洪水でこの水道が拡大し、別宮川が吉野川本川となった
(正確に名称が変わるのは、1932年(昭和7年)である。
これまでの別宮川へと流れる河川を「吉野川」に、
第十堰地点から流れ込んでいた吉野川は「旧吉野川」に名称が改められ
今日に至っている)
その結果、旧吉野川に流れる水量が減少し
水稲栽培に影響が出るようになったため
1752年(宝暦2年)に水位をかさ上げし
旧吉野川への流量を確保する堰が当時の第十村(現在の石井町)につくられた
(「第十堰」の名はこの村の名前に由来する)
第十堰建設は吉野川における藩政最大の土木工事であり
1736年(享保21年)に徳島藩が命じられた遠州大井川御手伝普請の際に習得した最新のノウハウが役立ったものと考えられる。
その後も新川の拡大により、何度かの継ぎ足しが行われ、現在の形に至る。
現在も当時の姿の青石組みが残され、堰としても有効に機能しているといわれている。
写真引用
1999年(平成11年)12月
第十堰の可動堰化を巡る住民投票条例が徳島市で可決された。
「投票率が50パーセントに満たないときは開票を行わない」という条件付きではあったが、翌年1月23日に投票が行われることとなった。
従来の決定通りに可動堰化を進めたい推進派は投票棄権を呼びかけ
可動堰に反対する市民団体や公共事業の在り方に対し批判的な姿勢の反対派は
「投票へ行こう」のプラカードを持って浮動票の取り込みを狙うなど
市を二分する状態となった。
この「投票へ行こう」運動は
その後の国政・地方選挙でも続けられている。
(平成12年)2000.1.23.住民投票が実施された。
最終的に投票率は約55パーセントに達し
開票が行われることになった。
開票の結果・・・
可動堰化に反対する票は91.6パーセントに達した。
(賛成派の多数は棄権しているため、この結果は予想されたものであった)
この結果を受け、小池正勝徳島市長は可動堰化に反対の姿勢に転じ
2000年8月、当時の政権与党であった自民党・公明党・保守党は政府に対し
可動堰化の白紙撤回を含む公共事業の見直しを提言した。
2002年(平成14年)4月には可動堰化の完全中止を公約に掲げた大田正が徳島県知事に就任し、以降の県知事選、徳島市長選とも、可動堰化を推進する候補は当選していない。
shigeの感想
ここでまた徳島県民市民の団結力を感じました。
徳島の団結力には 驚きしかありません。
こうして先人から受け継いだ伝統と文化を 守って今日の徳島があると感じました。
吉野川第十堰は近くで見たら、本当に人力で作られてる感がよく感じます。
日本の昔の人って ホンマすごいなって・・・
徳島県は
自然と共存しながら生きてきた事が
わかりやすいほどわかる県ですよ。
徳島県は、10数年前までは、高速道路が全くなかった県で
今でも電車は走ってなく!
よその県から見たら、遅れてるなんて思って見られてるが・・・
shigeは 絶対に違うと思うよ。
自然環境を破壊してまで 開発し便利を追求しない県民性だと感じる。
徳島県出身の大物政治家先生は
結構いますが、徳島に自然破壊するような恩恵はもたらしていないと思う!
(shigeの主観ですよ)
日本最大組織を築いた大物やくざ親分さんも徳島県出身です。
徳島の至る所を散歩してみたら、知れべれば調べれるほど・・・
いろんな歴史や 情報が入ってくる。
ブログをただ単に 散歩しましたよ~って書こうと思っても・・・
いろんな意味で、徳島の歴史を感じて、こんなことあってのって
散歩した後にわかることが多くある。
shigeのブログにコメントいただいて
あーここって
そんな歴史があったの、なんて後から
わかることだらけ(笑)
直感で行動して
自分の感覚で自然や文化を体感してるので
下調べなんてしないで行動してるので
ブログにコメントいただけるのは
本当にありがたい限りです。
調べて現地に行けば もっと感じる事違うとは思うけど・・・
shigeはそれはしない 自分の感覚だけで 行動して楽しんでるからね!
変な自信じゃないけど、自分行動には自信があるのでね(笑)
なんて・・・・・・・・・・・